映画『惑星ラブソング』の中盤で曾祖母が口にする「あの日の前に戻って、原爆投下を止めてほしい」というセリフが、心に残っています。これは、曾孫が「宇宙人は本当にいて、時間も空間も飛び越えられる」と信じていることに対して、それを否定することなく、「もし本当に時間を超えられるのなら……」という文脈で語られたものでした。
以下は、このセリフがきっかけとなって、映画を観終えた後、現在の世界情勢と重ねながら私が空想したエッセイです。
「もし、昭和元年に神のような存在として日本に降り立ったとして、どのようにすれば原爆投下という悲劇を回避できただろうか」と考えてみます。多くの選択肢があるように感じますが、私は三日ほどあらゆる”IF”を想定し、AIに各国の動きを判断させて、日本がどのような外交を展開すれば、原爆投下を避けられるか、真剣にシミュレーションしました。現実的には非常に困難でしょう。ナチス政権の迫害から逃れたユダヤ人科学者たちがアメリカで核兵器を開発したという歴史的因果関係を、日本の外交政策で変えることはできません。
また、当時のアメリカはハワイ王国を併合し、フィリピンを植民地として支配しながら、アジアを“新たなフロンティア”と見なし、西部開拓の延長線上に太平洋進出を進めていました。アメリカ国内では「民主化」や「自由の拡大」という建前もあったでしょうが、侵略されたアメリカ先住民や太平洋諸国、アジア諸国から見れば、それは明らかに膨張政策であり、武力による進出です。
こうした視点に立っても、産業革命を推し進めるのに必要な資源を持たない辺境の島国・日本と、資源・市場・拠点を求めるアメリカとが、太平洋のどこかでぶつかることはほぼ不可避だったのです。
日本がどれだけ賢明な外交をしても、太平洋戦争の勃発は避けられなかったかもしれません。そして、日本が戦場で善戦すればするほど、アメリカが決着を求めて原爆の使用に踏み切る結果になります。
もし原爆投下を避けるとすれば、それは欧米列強の要求をすべて受け入れ、早期に植民地化されるという選択肢だけかもしれません。しかし、それは日本人が強く求めていた「自主独立」とは真反対の道で、それこそ国民に受け入れられる政策ではありません。
現代でも、核保有国に侵略されている国がその戦争をすぐに終わらせる手段は、侵略を受け入れて降伏し、属国になることだけである──そんな冷徹な構図が見えてきます。
たとえば「他の選択肢を取っていれば原爆は投下されなかった」可能性はありますが、現実問題として考えてみると、原爆投下は国策の失敗だけでなく、もっと大きな地政学的国際秩序や軍事的合理性の中で、避けがたい状況であったうように感じました。
私たちはもう過去を変えることはできませんが、未来に向けては選択することができます。そして、その選択肢のひとつが、こうした映画を観て想像力を育てることなのだと思います。